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4月, 2021の投稿を表示しています

写経の効果

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ホムンクルスをご存知だろうか? 錬金術のガラス瓶の中の小人の方ではなく、下のイメージの方です。 この絵は人間の 体性感覚 を表しているそうです。 この絵を見ると手が異常に大きい。人間の脳の処理において手という機関がいかに大きな割合を割いているかが一目瞭然になる。 写経が作文能力の向上に効果があると言われる由縁も、そのへんにあるのではなかろうか。手を使っている職人さんなどは年を取ってもボケたりしないように感じる。脳を動かすには手を動かせばいい…というのは、あながち間違えではないようだ。 写経をやっていると銘文が書けるようになる…かは分からない。今現在私でも分かるのは、間違いなく書くことに対する抵抗は日に日に減っていて、文章を組み立てるスピードも早くなっているということ。 毎日少しずつと思うと新聞のコラムの分量は多すぎなくて良いようだ。社説を写経してみようとすると、その分量の多さが想像以上に負担になった。例え500文字ばかりの新聞コラムの写経でも、語彙は増えるし色々得るものが多い。

高級な焼肉が苦手です。

焼肉を食べに行きました。 ちょっと高級な焼肉屋さんです。 お値段もちょっと高級^^; もちろん美味しいのですが、私の嗜好に合わないようです。 このお店が…では無く、どうも日本の焼肉屋さんの傾向がです。 日本の焼肉では高級になればなるほど霜降りが珍重されるようです。 それはそれは見事なサシが入った物です。 ですが、私はこの霜降りが苦手なんです。 突き詰めると、サシって脂肪でしょ? 肉に脂肪が入っている割合が多いほど高級なら、脂身が一番…という事になりやしませんか? などと思ってしまうのです。 焼肉で食べるのは筋肉でしょ? 筋肉に脂肪がいっぱいって…ヤバくないですか? 私は肉が食べたいんですよ!! 脂身じゃなくて。

洋魂和才が良かったのでは?

明治の文明開化では、和魂洋才と日本の伝統的なものは西洋の物に比して劣っているとされました。本当にそうだろうか? 私は疑問に思うように成ってきました。 「日本古来の物や文化はけして西洋に劣っていない」 それどころか文明開化で取り入れるべきだったのは洋才ではなく洋魂…つまり合理的な物の考え方だったのでは? 何百年という年月を経て形づくられた物は、その過程で不合理なものは淘汰され、使いにくいものは改良される。人間誰しも便利さを求めるものだから。 そう考えると、古来の和の物は一定の合理性を持っているのが当然だ。 そう考えるようになったキッカケは「手拭い」。夏場にハンカチやタオルが汗臭くなるのに閉口し、貰ったのを使うように成った。 物は何のへんてつもない布を切っただけ。切り口から解れてもそのまんま。 最初は 「何だかな~」 けして良い印象は持てなかった。 ところが暫く使ってみると、これが以外に使い勝手が良い。 ハンカチとハンドタオルとバスタオルを一枚の手拭いで代用出来る。 旅行に手拭いを使うようになると荷物の量が大幅に減った。それから少しずつ手拭いを買い集めるようになり、今では手拭いばかりだ。 古臭いと思っていた日本古来の物の方が良かった。驚いた。 それから少しずつ日本古来の道具を試すようになった。 勿論、和の全部が良いとは言えない。生活様式や社会の変化で、そのままでは使えない物もある。 草履、下駄などが使えると、今現代人の抱えている足のトラブルの殆どが解決する。 水虫、外反母趾などは靴を使うようになってからのお悩みなのでは? 高温多湿な日本の気候に靴は合ってないと思う。

方向音痴の直し方

以前の私は迷って居るのが普通で、迷わず着くのが稀という冗談のような方向感覚の持ち主だった。 デパートではトイレにいったら行方不明になり、どうやったら迷えるのかと家族に呆れられた。 駐車場に車を止めたらどこに止めたかわからなくなり、端から探すはめになった。 子供の頃はそれほど酷くはなかった…とは言えない。何度か警察にお世話になっている。 ナビを使うようになってから更に酷くなった。方向感覚の無さと道が覚えられない事にうんざりしていた時に、最初は 「これで馬鹿にされずにすむ」 と思った。確かに山の中で何時間も走り回るなんて、遭難めいた状態にはならなくなったが迷わなくなる訳じゃない。迷ってましたよ、ナビ使っても。 そんな私が何を血迷ったか貸切バスの仕事をする事になり、其処で教しえられたこと。 使う物 地図 マーカーペン やり方 帰宅後に走った道を思い出しながらマーカーペンで塗っていく。 これだけ! 何も難しいことはない? とんでもない、私は最初ぜんぜん塗れなかった。出発点と途中の休憩した場所くらいはなんとかという程度だ。ミソは記憶を使って再現しようとするところ。自分でも唖然とするくらい覚えていなかった。 初めてから七年なるが、今では1日の行程を塗れるようになった。 それでどうなった? 道に迷う頻度が大幅に減った。迷っても直ぐに気がつくし、リカバリーも簡単。ナビが無くても困らなくなった。方向感覚が研ぎ澄まされたと言うのだろうか? この方法は仕事で運転する人達の中ではポピュラーなようだ。もし、私のように方向音痴が酷くてお困りなら、一度やってみることをお薦めする。

銘文ってなんなんだろう?

書き写す素材は、神奈川新聞の照明灯と読売新聞の編集後記をメインにした。照明灯は購読しているので手近にあったから、編集後記は評判が良かったから。どちらも大した理由はない。 内容が理解出来もしないのに書き写しても効果があるとは思えず、書き写す前に一読してみる。ところが、銘文と言われている理由が良く判らない。作文の才能が欠如している由縁だな。英語だと構成もスッキリとしていて、文の構造も短文が良いと言われるのだが、日本語では必ずしもそうではないらしい。 前途多難な予感。

名文を書き写すと作文が上達するというのは本当か?

作文の上達には視写、すなわち名文を書き写すことが効果があると様々のメディアで書かれている。本当だろうか?…幾分の疑問は残る。多読を試してみたが、作文に関して言えばさほどの効果はなかったようだ。他に取るべき手段も無いので、試しに視写をやってみることにした。 祖父の紀行文、私の運行記録、手書きの手帳の不思議な効果など、自分でも書くことには何がしかの脳への影響があるとは思っている。だからわざわざ手書きの手帳などを使うようになったのだ。取り立てて意識してやらずとも、手を動かし文字を紙に綴る。それだけの行為が無意識に影響を与える。それは判る。 名文の視写だけで果たして本当に文章が上達するのだろうか?効果は半年程で現れるだが…あって欲しい。 その実験過程を記す意味あってブログを再開することにした。